昭和45年06月14日 朝の御理解
御理解 第2節
「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてるということがない。」
神徳を受けるという事のために信心をしておると。と言う様な人達は神徳は受けられないと思うですね。神徳を受ける為に信心をしておると。むしろおかげを頂く為に信心をしておるというならですね、成程おかげが受けられましょう。おかげを受ける為に信心を、どうでもここん所を助けてもらわんならん。ここの所のおかげを受けんならんと思うて一生懸命、神様へ向かうて、一心不乱な信心をさしてもらう。
そこから確かにおかげが受けられますね。所謂「和賀心に神がござるからおかげになるのじゃ」という意味でのおかげですね。所謂奇跡的なおかげも受けられる。信心はまあだいたい、そう言う所から始まるんですがね、おかげを受けたいから一生懸命お参りをさして貰ったと言う所が。神徳を受ける為に例えば修行もした。神徳を受ける為に信心をするといかにもそのう、それの方が本当の様であって実は本当じゃない。
あまりに欲が大き過ぎる。だから願う御神徳が受けられない。それは皆さん御神徳というものがどういうものかという事は、話を聞いては知っておるけれどね、御神徳というのは神様の御信用じゃ。氏子の一握りというたら是だけだけれども、神様の一握りと仰ったら大変な事だと。その大変なおかげを受けるそれがその、御神徳によらなければならんと。限りのないそういうみてる事のない程しのおかげを受けられるのが神徳じゃ。
それこそ無尽蔵のおかげを受けられる、しかもあの世までも持ってゆかれ、子孫にまでも残るというのですから、よし一つ神徳を受けてやろうと、一つ神徳を受けようと言う様な信心はですね、あまりにも欲が大きすぎるからおかげにならん、御神徳受けられん。その辺の所皆さん分かるでしょうかね。むしろおかげを頂かねばならんと、例えば病気をしてる人がどうぞ病気を良くなして貰わなきゃならん。
金銭に不自由しておる人がどうでも金銭のお繰り合わせを頂きたい。どうでもひとつ商売繁盛のおかげを頂きたい。その為に一途な信心を思い立たしてもろうて、一生懸命信心さして貰う事によって、病気が癒え商売が繁盛して来るように段々成って来ると。そういうおかげならですね、例えば欲が小さいね。病気が治りたいとまあいうなら人間らしい願いなんですね。人間らしい願いですから矢張り神様もおかげにして下さる。
またはああ和賀心に神がござるからおかげになる、「一心を立てれば和賀心に神がござるからおかげになるのです」、というおかげ一生懸命に願うから、まあ神様もおかげを下さるという。またはその一心がです、和賀心に神がござるからおかげになると、ですから、むしろそのおかげを頂くという事の方がですね、まあ人間らしい。まあいうならソープな願いとでも申しましょうかね。痛いから痛い痒いから痒い、そこん所をおかげを受けたいとこういうのである。
神徳は信心をすれば、誰でも受ける事が出来る。ここに神徳を受ける事を強調しておられます。だからなら神徳を受ける為に、信心しようというたんでは、御神徳は受けられない、それはどこまでも信心すれば御神徳が受けられるのある。その御神徳が受けられる様な信心というのは、御神徳を受ける為に、信心をしておるというのは、ここでは本当の信心という事にはならない。
それではあまりにも虫が良すぎるというか、その欲が大きすぎる。その御神徳というのは、神様のご信用、神様のご信用を頂いたら、願わんでも頼まんでも無尽蔵に限りなく、いわゆる、みてる事がない程しの、おかげの受けられるおかげを頂く為に、どうでもこうでも、神徳を受けようと言った様な願いの元に、信心が進められたのでは、それは本当の信心じゃない。いわゆる真の信心じゃない。
真の信心勿論「神徳は信心すれば、誰でも受ける事が出来る」と仰る神徳というのは、信心というのは、勿論真の信心の事。そこでね真の信心を、求め求めして行くと言う事に成る訳です。是は真の信心というのは条件がない、私は今朝このお庭に出て天地を拝します時にですね、昔三代金光様がおいでの時分に、お祝詞の中に「天地に道あり」というあのう、お言葉を承った事があります。お祝詞の中にそんな言葉が。
今日そこのいわゆる天地を遥拝さて頂いておる時に頂いたのがね、「天地に道あり」という、そういうお言葉であった。「天地に道あり」。その天地に、天地に通う道があるとするならね、そういう道を行ずる、そういう道を歩かして貰う。私はそういう道を歩くという、天地に道ありといわゆる真の道です。真の道があるその真の道を歩くと言う事。いわゆる真の信心をさせて頂くと言う事。
その真の道とか真の信心とかというのにはですね、条件がない。是を歩いていけば御神徳が受けられる、というそのその条件そのものがね神様の心に適わんようです。あれが一生懸命参って来よるばってん、それこそ無尽蔵のおかげば頂こうと思うちから、限りがないおかげば頂こうと思うちから参って来よるとという事になると、そこにちょっと不純なものが出て来る訳なんですね。
むしろ人間らしゅうです、痛ければ痛い、痒ければ痒い、どうぞ神様お願い致しますと言うて、純真に素朴に丁度小さい子供がね、母親の膝に這い上がっていってお乳を求めるような、ああ生き方になった方が、むしろお乳を与えられるという事においてはです、おかげが受けられる。おかげ信心とかご利益信心というのは、げさくい。そげな信心はいけんと言う様な言い方をする人があるけれども、そうじゃない。
やっぱりそのおかげを人間は受けなければ立ち行かんのですから、それがただいうなら赤裸々に純真にあれを下さい、あれをこうして下さいと言った様な願いをです、たててその願いに向かって一心に信心をすればそこからおかげが受けられる。そういう私は方が私人間らしい信心だと。そういう信心からです、いわゆる「天地に道あり」と言う様な道の、道を習うというかね、道を教えて貰う、人間としてはこういう道を歩かして頂くという事が本当だと、いわゆる本当の道というのが、真の道です、ね。
だからもう、当然真の人にならせて頂く願いをかけ、真の道を歩くという事がです、もう当たり前の事当然の事。子供が親に孝行をする。是は私は当然な事だと思う。家の親は財産を沢山もっとるから、あの財産ばいっちょ貰わんならんから、一つ機嫌とっとこうと言った様なのは、私は親孝行じゃないと思う。いわゆる財産目当てに親を大事にすると言う様な事ではね、私はまあ一時は人間じゃけん騙されちから。
家の息子は中々名臣な、中々親の心に添うて親孝行するから、もう財産はあれにやろうと言う様な事になるかも知れんけれどもね人間なら。所が神様はそこを見逃しなさるはずはない。あれが一生懸命御神徳ばもらいたいと思うちから参って来よる。御神徳というものは、もう無尽蔵。限りないおかげが頂かれておるというもんだから、その限りないおかげば頂こうち思うちからえらい目しとって参って来よるばいという所が、やっぱ不純なもんがあるわけなんですね。
それはここでいう信心すれば、誰でも受けられるという信心じゃない。信心とはどこまでも信心であり、神様を信ずる心であり心が強められる、愈々信心とは真心が篤うなり、愈々信心とは、いわゆる神心が強うなってくるという信心の事であります。ですから矢張り要領じゃいかん、誤魔化しじゃいかんという事になりますね。それで只今その親孝行という事の、例を取りましたがです。
そこでならまず私共が分からなければならない事はです、御教えに「神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じことぞ」と言う様な所が私は、先ず分からなければいけないと思うですね。神はわが本体の親。信心は親に孝行するも同じ事だよ。そういう信心が身について来なければそれには先ず、神はわが本体の親である事の事実をね、私はつきとめなければならんと思う。
昨日は十三日会でございました大変盛大でした。中にも私申しましたがさあもう愈々農繁期になったから、今度の十三日会は少なかろうと言うておる人があった。所がどうしてどうしていつもよりも、もう廊下にはみ出すほどしに一杯だった。そこん所にです、今日の信心ですね、信ずる信ずるとは信ずる心という事。これは私の信ずる所なんですね、私の信念なんです。
雨が降るからとか、農繁期だからとかで今日はお商売が少ないじゃろうてんなんてんちいう思い方は、もう神様を信じてない人の思い方なんです。おかげを頂けこちらに力さえ頂きゃあ、いつも例えば百人のお客さんを差し向けて下さるなら、例えば雨降りであろうが農繁期であろうが、絶対神様の働きには、間違いがないと信ずる心なんです。だからその、信ずる心を頂く所にです、矢張りなら私共でも、なら何十年前にそうして信ずる力が強かったかというとそうじゃなかった。やっぱ農繁期じゃけん店が暇だ。
だからやっぱり暇だのおかげしか頂けなかった。けども段々所謂神はわが本体の親と言う様な所の信心、もう絶対の絶対信と申しますね絶対信。絶対信の信が段々おかげを頂いて参りましたらです、雨が降るから農繁期だから商売が少ないと言った様な事の筈のあろう筈はない。神様の働きにそういう例えば天気に左右されたり、農繁期に左右されたりで神様の力が欠けたり削げたりする様な事は絶対にないという信絶対信。
昨日その事を皆さんに、却ってむしろいつもよりも多かった。そういう事実をね一つ皆さんも目の当たりに見てからの事ですから、自分の言うておる思うておる信の力というものが弱いという事を気付かしてもろうて、愈々その絶対信の信心に向かって、信心を進めて行かなければなりません。そこにはねおかげが受けられると言った様なもの。その絶対信を求めての信心なんですね。
そういう信心からです、いわゆる信心いわゆる真心。いわゆる真の人にならせて頂く、その真の人の心から生まれてくるのが真心、とにかく真の人にならせて頂こう、いうなら本当の神の氏子としての人間にならして頂こうという願い。そこに私共が教えを頂いて改まらなければならん、磨かなければならんと言う事に成る様な信心。自分の心が段々清められていく信心、段々磨かれていくその事の有り難さ、その事を教えて頂く喜ばしさと言った様なものがね、いわゆる信心なんです。
御神徳を受ける為じゃないですね。真の人にならせて頂く為に教えを頂いておる。信ずる心がいよいよ強うなり、真心が愈々真心の人に均してもらい、自分で自分の心が拝めれるほどしの私、いわゆるもう信心である、いわゆる神心である。その神心が段々自分のものになってくる。そういう事の時に例えば神様、その氏子をまあ評されるというか、見られてからどう言われるかというと、あの氏子はもう間違いがないという事になって来るじゃないでしょうか。
もうあの氏子は金の中に埋めておっても、無駄遣いどんする様な氏子じゃあない。例えばそういう風に信じてる。あれはもう金の中にどん埋めよったなら、もうどげな事するじゃわからん。我儘勝手に又、その使う様な事をするじゃろうと言う様な事ではね、矢張りいけんのです。所謂真の人にならして頂く、真の信心が分かってくるとです。そういうあの氏子はもう大丈夫だ間違いがない、と言う様な所まで、私共が高められて来る時です、愈々神様のご信用というのが、ついて来るんじゃないでしょうかね。
いわゆる信用してもらわんならんから、お徳を頂かんならんからと言うとですね、どうしても裏表が出てきます、要領が良くなります。少しでん良う見せようと、言う様なものが出来て来る。けれども裏もなからなければ表もない。いやむしろ例えばその裏を人に見えない様な所を大事にすると、言った様な生き方が身についてくる。そういう私は生き方こそ本当の信心だと思います。その辺からね、私は天地に道ありというその、道がハッキリして来る様に思います。
私共の生き方はもうここに定まったという生き方なんです。その辺からね、いわば止むに止まれぬと、言う様な心が出来て来るように思います。あれは吉田松陰の詩でしたかね。「ああすればこうなるものと知りながら止むに止まれぬ大和魂」何かそんな詩でしたね。ああすりゃこうなる事が分かってる。その当時の例えばああ国の掟からいうたらです、こういう掟を破ったら自分は処刑される、殺される事が分かっておるけれども、止むに止まれぬ大和魂がそう言わなければ、しなければおられないというのである。
所謂止むに止まれんもの。それはその現在の当時のお国の実体というものが分かれば分かるほどです、ジッとしておられないものが出来る。今の合楽にそれを置き換えますと、どういう事なるでしょうかね。先生がもうこんなにはいって言うておる事、人間が幸になる為には、幸福になる為にはどうしても自分自身の心の中に、和らぎ賀ぶ心を頂かなければならんのだと。その和らぎ賀ぶ心がなからなければ、どの様に巨万の富を積んだ所で人間の幸福というものは有りえないのだと。
どの様な運命どの様な学問が進んでも、それによって人間が幸になるという事は出来ないと愈々、ギリギリ今年という今年は解らせて頂いた様な年柄なのだ。そこで心所謂心も和賀心という事をです、私共がああまず頂いて、それを世界中の人間氏子にでも知らせていきたい、分からして頂きたい。その為の修行ならば、どんな修行でもさして頂こう。いわゆる止むに止まれない心というものが生まれて来る。
昨日もある人がいうておられました。もう本当に今年、今月の信心の焦点である所のですね、「仲よう楽しゅう有り難う」と。もうまるきり私の一家の為にこの言葉があるように思いますというほどしに幸なおかげを受けておるというのである。だからそういう幸せなおかげを受けておる事をです、世の多くの人にも知らせなければならない、分かってもらわなければならない、と言う所まで、もう一段信心を進めなければいけませんねと私申しましたら、いいえこのままで行きゃあ。
必ず周囲にそれを広げて行かなければおられんものは、自然に育って来るだろうというて、その方は返事をしておりましたが。成程その様にも思えますけれどもですね、それが止むに止まれんと言う所にまでは進まなければ、まあ自分がやれやれと言う様な事になったら、中々それが他人にまでも持って行けれると言う程しの心が、その育たなかったら、もう結局マイホーム的なおかげだけに止まってしまう、という矢張りまあ自分さえ良かればといったような事になってきます。そこでもっともっと本当の事。
例えばこの和賀心をね世界中の人達にも分かって貰いたいと言う程しの心がね、止むに止まれん物になってくる時にです、とてもただ家に安閑とはしておられない。その為の修行ならばそれこそ命を張ってでもという、吉田松陰のそれなんです。こうすればああなるああすりゃあこうなる事が分かっておってもです、矢張りそれを行の上に現して行かなければおられないという所まで高められてくる。
ですから自分達が頂いておる信心、自分達が今段々頂いておる所の和賀心というものを、止むに止まれん思いでです、私は世の多くの難儀な氏子の人たちにです、伝えて行きたいと言う様な願いが段々育ってくるような信心、それを私は神心と今日、思います。いわゆる信じて疑わない。真心がだんだん集まって来るという真心、信心。それから神心。もう人の難儀を見てはジッとしてはおられない、止むに止まれないもの。
そういう私は信心、これには条件がないでしょうが。 ここで人を助けたならば自分が御徳を受けるけん助ける、と言った様な条件のあるものではない。神徳を受けたいからそうするのじゃない。止むに止まれん心がそうしなければおられないという信心。そういう信心にです、私は御神徳は誰でも受ける事が。そういう信心に神様がですね、もう神様の方が無条件におかげを下さる、御神徳を下さる。
いうならそういう氏子の上に神様が、あの氏子は間違いがないと認めて下さる。そこから私頂けてくるのが御神徳だとこう思います。昨日は夜松栄会でございました。二回松栄会が開かれますのに一回だけを是非私に出て欲しいというので、この頃から松栄会に私も一緒に、まあ共励をさして頂くわけでございますがね。中で、北野の堤清さんが、昨日の朝お夢を頂いたと。もう合楽に沢山ないわゆる川がある。
その川のどの川にを見てもです、もう真鯉、緋鯉がいっぱい泳いでおる。それをねあの佐田さん所のお孫さんで今、今日参ってきとりますがね、佐田恵介君が一生懸命それを取ってやっておるお夢であったちいう。佐田恵介ていう、佐田っていうのは、人偏に左でしょうが。まあ是は勿論合楽の事であろう。田は受け物であろう。おかげの受け物。おかげの受け物が出来ればね、恵介のけいは恵と書いちゃる。もう願わんでも恵まれるというのである。そこで堤さんも一生懸命とられた。
ところがその真鯉を一匹取った所が、もうそれこそ是が池ん中で、この川で一番大きいじゃろうち言う様なその、緋鯉を取ったら逃がしてしもうた。そしたらね、はあ惜しかった、逃がしたらまああの鯉ばとる為にはまあ一年かかるじゃろうち誰かが言うておるとこじゃった。信心のいわば機微とでも申しましょうかねえ。おかげを取り落としたらね、もう本当にまた大変な苦労をしなければならんという事です。折角取っておったのがですね取り逃がした。したらはあ取り逃がしたけんもう、又一年な掛るじゃろち。
所謂その真心というものは一本勝負だといわれておるですね、そんな御理解頂いたでしょう、だから次の例えば勝負をさして貰うというかね、又それを受けるという事ははあ失敗したけん、明日はと言った様な訳にいかんという事。又それを得る為には一年間のいわば修行が、又積まれなければならないという意味の事だと思う。御徳というのは御神徳と教えて下さいますから、本当にですね、今私共がね御神徳を頂こうと思うなら合楽に来いと、というて合楽に来たんではその徳は受けられない。
今本当の信心を頂きたいならば合楽に来い。真の信心が分かりたいならば合楽に通うて来い。そこに真の信心が分からして貰えるその喜び、楽しみというものがお互いに出けてきた時にです、その御神徳は受けられるんです。ははぁあそこには鯉が沢山おるけん、鯉捕り行こうというだけじゃいかん。まあいつもはおかげおかげというてはならん。御神徳を頂くにはというふうに頂きますね。ただ今日はむしろ神様がおかげを下さるのは、まあおかげを願う方がまだまだ益しだと。
それはね人間らしい欲望人間らしい願いだから、神様もそれに矢張り免じて下さるというかね、いうなら可愛い可愛らしさというかねにおかげを下さる。御神徳を頂きたいというて合楽に通うたもんじゃそれはむしろおかげ、御神徳は受けられないだろう、ね。だから私が今日申します。信心は親に孝行するも同じ事ぞやと言う様な所を分からしてもろうて、当然の事としてです。親に孝行するいわゆる、どうさせて頂くという事が、神様のお喜びであるかと。
どうする事が親が喜んでくれる事かという事をまず知って、その事を一生懸命勤めるという事。御神徳を頂くためじゃない、子供として当然な事をさして頂くというだけのこと。そこで今合楽ではです、私共が和賀心を頂いた。その和賀心を周囲に広めて行こうと言う様な心がですもう間違いのない、神様のお喜び頂けれる。私は信心だとこう思います。それがです。止むに止まれないものに、高められてくる時、いよいよ神様のご信用は、そこに集まる事を信じます。
そこからですあの世にも持っていけ、この世にも残しておけるという神徳が、そういう信心の上に、約束されるのだという事でございます。どうぞひとつしっかりね、苦しいなら苦しいと、赤裸々におかげを願う信心もまた有難い。そしてそこから信心が、分からしてもらえる、いわゆる信心、真心、神心の道すがら、そこんところを間違いなく。その道を辿らしてもろうて、天地に道あると仰せられる。
天地の道に出らなければならない。そこから次第にです、自分が愈々助かること、自分がおかげを受ける事が、有り難いと分かるだけではなくて、これを人に伝えて行きたいという、止むに止まれぬ心が出来て来る。それは命を掛けてでも、その事を分かってもらいたいと言う様なです信心。そういう私は信心の熱情というならそういう意味の事だとこう思う。そこからそういう信心が出来る時、誰でも御神徳を受ける事が出来るという事になるのじゃないでしょうかね。
どうぞ。